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3 ルイーズ・ブルジョワ年表2の2  (コピーや転載は固くお断りします)

2つ目の年表です。ルイーズ・ブルジョワ研究の第一人者ベルナダック編。1つ目のパリ市立近代美術館カタログのものより読みやすく、注もあります(ただしこのブログでは翻訳原稿の注を反映させることができませんでした)。2つとも1990年代半ばまでです。むろん掲載書籍の刊行年までだからですが、手元の近刊の研究書には詳しい年表が見つけられませんでした。晩年の活動については英語版ウィキがフランス語版よりも充実しています。
なお、翻訳に当たって、特殊な読みの固有名詞については専門サイトでチェックしています。

 

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Marie-Laure Bernadac : Louise Bourgeois,   Paris & NY, 1996, pp.163~186.(ロール・ド・ビュゾン=ヴァレとの共同で作成。ニューヨーク近代美術館で1982年に開催された「ルイーズ・ブルジョワ」展カタログ所収年表の項目の一部の利用許可を与えて下さったデボラ・ワイに感謝する。)

 

1910~20

ルイーズ・ブルジョワ、1911年12月25日、クリスマスの日に誕生。ジョゼフィーヌフォリオーとルイ・ブルジョワの間の2番目の女児であったが、実際には長子が亡くなっていたため3番目の子供であった。生き残った最初の子アンリエットはルイーズより6才上、弟ピエールはルイーズの15ヶ月後に誕生。男子誕生が期待されていたので、父と同じ名前をつけられた。ルイーズは父にそっくりだった。ルイーズによれば、この命名は母が夫を慰めるためだったが、それは「娘を売る」ことでもあった。一家は最初サンジェルマン大通りの147番地に住み、後に172番地のタピスリのギャラリーの上のアパルトマンに転居(訳注:172番地は現在カフェ・ド・フロール、147番地は教会の向かい側あたり)。
1914~18年の戦争中、ルイは3児の父であるにも関わらず歩兵連隊に入隊し、家族は何カ所かの宿営地に同行した。「彼は自分でそう思わなくても一家の主人公だったのである。」  1915年ルイは負傷してシャルトルの病院に送られ、ルイーズも見舞いにゆく。「父はアリスティド・ブリアンの影響で平和主義者になり、ドイツと和平を結ぶべきだと言っていた。」  1912年、一家はパリの外のショワジー=ル=ロワに家を買い、1918年までそこに住んだ(のちにこの家は取り壊され、市の劇場になった。1993年、市はルイーズ・ブルジョワにこの場所を記念する作品を依頼した)。ルイーズの一番早い記憶は戦争中のものであった。空襲があって母と娘たちは地下室に降りなければならなかった。管理人が上ってきて母に降りるのを手伝うと申し出た。姉は自分で歩けたが、母は私を抱いていた。管理人が母の手に自分の手を重ね、私は彼が母に言い寄っていると感じた。私は気づいていた。管理人は自分の両手を平らにして母の手に重ねた。母は事を解決するために何か大事にしていたものを彼に与えた。私は人質でしかなくて、本当に厭だった。私は3才で、これが最初の記憶である。私には彼が母に言い寄ったことがわかった。彼女はまんざらではなかったと思う。男が女に言い寄るのは喜ばせるためだからだ。  
家族との繋がりはルイーズにとって非常に重要だった。子供時代の記憶や両親、姉妹、弟との関係は彼女の人格形成に決定的な役割を果たし、彼女の天職が芸術家であることを教えた。彼女は「私の両親は巨大で堅固で、つねに私の道しるべだった」と言っている。  一方「私は弟も姉も好きではなかった。彼らは私を悩ませた。それで私は自分に子供ができたときには彼らに優しくすることを学んだのだ。それは私に取ってまったく新しい世界だった」。  彼女は逆に高齢の世代は好きだったと言う。「祖父は親切だったし、祖母はきれいな青い目をしていた。私は彼らを愛していた」。  だが、姉と弟、そして父親を亡くしたために私たちの家に住んでいたいとこたちは「ライバル」だった。彼女にとって親であることは巨大な責任を意味していた。彼女は言う、「子供たちは両親の神経症から守られなくてはならない・・・。さもなければ私たちは恐ろしい虐待からの回復に生涯を費やすことになるだろう。虐待というのが適切でないとしたら、両親の恐るべき自己中心主義からということだ」。  明らかに意志強固な女性であったルイーズの母はフランスのマッシフ・サントラル(中央高地)の出で、バランスが取れていて、理性的で、完全なフェミニストで、夫の不実に辛抱強く耐えていた。彼女の唯一の弱点は健康問題で、1918年のスペイン風邪で死にかけて以来、肺気腫を患っていた。ルイーズが愛憎ない混ざった矛盾する感情を抱いていた父は、移り気で魅力的で嘘つきで未成熟な男だった。彼はルイーズの子供時代に影響を与えた巨大な存在で、彼自身の意図したことではないが、彼女の芸術上の関心において鍵となる役割を果たした。
10才のときからルイーズはタピスリの修復のためのデッサンをして両親を助けた。欠け落ちている人物の脚やそのほかのモチーフを素描したのである。「タピスリの下部は摩耗していることが多かった。つまり人物の脚が無くなってしまっているということだ。私の仕事はその脚を補い、ときにはその全体を馬の蹄も含めて描き直すことだった」。  つまり、美術は家庭の一部であった。デザイナーのグノー氏が不在のときにはルイーズが代わりをした。こうしたデッサンが彼女と美術の最初の関わりであった。「両親が私にグノー氏の代わりを務めるように言うと、そのことが私の芸術に尊厳を与えた。そして尊厳こそが私が求めるすべてだった」。  それはまたルイーズに自分が有用だと感じさせた。有用さの観念は彼女の言葉にしばしば登場する。「取引というのはそういうもので、自分を有用な存在にできれば人に愛されるようになる」。 
1919年に彼女の両親はパリ郊外のビエーヴル川近くのアントニーに家を購入し、そこに古いタピスリの修復工房を設立した。日曜ごとにルイーズは父と一緒にアントニーからクラマールまで歩き、ビエーヴル渓谷からセーヌ川の渓谷までパリの眺望を楽しんだ。とはいえ、ブルジョワ家はパリのアパルトマンも手放さなかった。ルイーズはリセ・フェヌロンで中等教育を受け、そこでのよい思い出をもっていた。教師たちのことが好きで、学校は耐えがたい家庭からの逃避場所になった。勉強もよくして、9年生のときにはクラスで首席だった。いつも旅好きだった父親は、彼女がまだ幼いときに英語に磨きをかけるためにイギリスのブライトンに行かせた。だがもっと重要なことは父が若い愛人サディを家に入れたことだった。サディはイギリスからの交換留学生で、ルイーズより何歳か年長でブルジョワ家で10年暮らした。彼女は3人の子供たちに英語を教えたが、ルイーズが一番気に入っていた。ルイーズはこうして英語が堪能になった。
1922年から32年にかけて、ルイーズの母親がもうパリの湿気に耐えられなくなっていたので、ブルジョワ家は冬を南フランスで過ごした。初めはシミエに、次いでマティスやボナールが住んでいたル・カネに滞在した。こうして母と子供たちは年に四ヶ月をコート・ダジュールで暮らし、ルイーズはカンヌの国際リセに登校した。この時期の何点かの写真では、彼女はシャネルのニットのスーツを着て、とてもエレガントである。ルイーズは手ずから昔風のガラス製の吸い玉を使って母親の看護をした。吸い玉はのちに彼女の彫刻作品にときどき用いられることになる。この体験によって彼女は医学への関心を持った。

1930~40

ルイーズは1932年に大学入学資格試験(バカロレア)に合格した。同じ年に母が死去した。ルイーズはビエーヴル川に身を投げて自殺未遂をした。父親が彼女の悲嘆をからかったためであったが、その父が川に飛び込んで彼女を救った。ルイーズは初め大学で数学を勉強したあと、非常に好きだった幾何学を学ぶためにソルボンヌ大学に登録した。だが代数が苦手だったためにすぐに数学は止めて、美術の勉強に専念するようになった。短期間国立美術学校に通ったが、すぐにアカデミックな教育法が嫌になり、あいついで私塾のランソン、ジュリアン、コラロッシ、ラ・グランド・ショミエールに所属した。「私は全部やってみた。真実やインチキでない人たちや本当のものを探してね」。  そこでルイーズは、ロジェ・ビッシエール、フェルナン・レジェ、マルセル・グロメール、オトン・フリッツ、アンドレ・ロート等の教えを受けた。彼女はエコール・デュ・ルーヴルでも勉強し、そこでの非常に変わった体験を記憶している。彼女はある日カフェテリアに降りて行ったが、その場所には美術館の警備員がたくさんいて、その多くが退役軍人で腕や脚がない人だったのである。その光景は彼女を怯えさせ、消えることのない印象を与えた。彼女は英語を教えて小遣いを稼いだり、レジェのアトリエのアメリカ人学生のための通訳をして、自分の授業料をただにしてもらったりした。彼女はレジェが「最良の先生」だったと言っている。彼はルイーズのデッサンを見て、彼女の本当の資質が彫刻にあることを見抜いた。ルイーズはまた、ポール・コランやカッサンドルの下でも学んだ。「彼らは政治的関心が強く、外国の生徒をたくさん受け入れていた。カッサンドルは溢れる才能の持ち主だったが、生徒にほとんど時間を割かなかった。ポール・コランはとても重要だった。彼は演劇のポスターを制作し、1932年にロシアのモスクワで重要な講演をした。私はこのときに初めてモスクワに行った」。  ルイーズは1934年にそこに2度目の旅行をした。彼女はグランド・ショミエールのクラスのとりまとめ役で、人体デッサンのモデルを選んだ。「売春婦たちが私に仕事をくれと言ってきた。彼女たちはとても母性的で、清潔さにこだわっていて、染みを嫌った」。  ルイーズはサロン・デ・ザンデパンダンやフランス芸術家協会展にわずかながら出品した。
1937年に彼女はアメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターに出会い、38年に結婚した。そしてアメリカに移り住んだがその前に幼い少年ミシェルを養子にしていた。たぶん「フランスの一部」を持って行くためと、国を去る償いのためであろう。「私はフランスを去るのが後ろめたく、罪の意識があって、この孤児のために何かしたいと思った。つまりそれは道徳心からであった。  ブルジョワ家の人々によれば、ルイーズの夫と父はうまく行っていなかった。ロバートは彼女の父に反抗的で、父のいわゆる「面白い話」を馬鹿にしていた。彼女にとってフランスを去ることは重要だった。抑圧的な家庭的雰囲気を逃れることができたからである。「サディが私のアメリカへの出発の道を開いた。フランスにいたら私は家族の混沌とした繋がりから逃れることができなかっただろう」。  それに加えて、夫や新しい故国のピューリタン的性格は、父親のドン・ファン的行動の解毒剤の役割を果たすように彼女には思えたのだった。
ニューヨークに到着したルイーズとロバートは、パーク・アヴェニューと東38丁目の交差する場所にアパートに居を定めた。彼女は直ちにアート・スチューデント・リーグに登録し、ヴァクラヴ・ヴィシアシルのアトリエで2年間学んだ。彼女は夫からの独立が大事だと考えていた。彼らには3人の息子、ミシェル、ジャン=ルイ(1940年7月生まれ)、アラン(1941年11月生まれ)がいた。ブルジョワは母、妻、アーティストの三役をこなしていた。
1939年、夫妻は東41丁目街に転居し、そこに2年住んだ。ブルジョワは版画制作を始めた。彼女はブルックリン・ミュージアムで初めてのグループ展に参加した。初期の時代に彼女は版画を規則的にこの美術館や、フィラデルフィア版画クラブや、アメリカ議会図書館や、ペンシルヴェニア美術アカデミーで展示した。彼女はアメリカ抽象芸術家グループの活発なメンバーだったゲルトルードとバルコム・グリーン夫妻と出会った。


1940~50

1941 年に彼らは東18丁目の集合アパート「スタイフェサント・フォリー」に越して1958年までそこにいた。ブルジョワが木で彫刻を制作し始めたのはここの屋上であった。一家はまた長い時間をコネティカット州イーストンに購入した別荘で過ごした。
ルイーズは戦争中には戦争を支援するための芸術活動に参加。マッソンやカルダーと一緒に「セラピーの芸術」展に出品。この展覧会は負傷した元兵士のセラピーとしての美術・工芸活動を推進するための企画であった。1945年6月、ノーリスト・ギャラリーでの「フランス・ドキュメント1940~45 地下運動の時代の美術、文学、出版」展を企画。
1945年6月、バーサ・シェーファー・ギャラリーにて最初の個展「ルイーズの絵画」開催。<自然史、フォレット氏、コネティカット記録>を含む12点の作品を出品。同年彼女は、大抵は抽象表現主義世代のアーティストたちとのグループ展に参加。また初めてホイットニー・アメリカ美術館の「現代アメリカ絵画年次展」に参加。スタンレー・W・ヘイターのアトリエ17で仕事をし始め、そこで何年ものあいだ版画を制作した。ネメツィーオ・アントゥネス、ル・コルビュジエホアン・ミロイヴ・タンギー、ルートヴェン・トッド等のアーティストと友達になった。また、マルセル・デュシャン、ピエール・マティスアンドレ・ブルトンとも知り合った。

1947年10月、ノーリスト・ギャラリーでの2度目の個展で17点の油彩画を展示。それには<カンヴァセーション・ピース>、<ジェファーソンの裁判所>、<ルーヴル宮殿での残念なできごと>、<屋根の歌>が含まれていた。
アトリエ17で制作した<彼は完全な沈黙のなかに消えた>と題する9点の版画と寓話を発表。
1949年10月、ブルジョワペリドット・ギャラリーでの個展で彫刻家としてデビュー。ギャラリー支配人のルイス・ポロックとその友人の建築家兼美術の目利きアーサー・ドレクスラーの招きによるもので、ドレクスラーは会場設営にも協力した。
このときの彫刻のタイトルは全部英語で、英会話が堪能になりたいという彼女の「熱意」を示す一方で、自伝的細部を喚起するものでもあった。すなわち、<C.Y.の肖像>、<シャトル(杼)の形の女>、<剣の子供>。大きな木の彫刻を制作したのもこの頃であった。それは赤と白に塗られた<盲人を導く盲人>で、<C.O.Y.O.T.E.>という題のピンクの別ヴァージョンも存在する。


1950~60

5月、ブルジョワは「怒れる者たち」と呼ばれたニューヨークのメトロポリタン美術館アメリカ絵画関係の企画に異議を申し立てるグループに加わった。
10月、ペリドット・ギャラリーで2度目の個展。<眠る人物>、<乳房のある女>、<継続する反目>、<春>。

1951
父没。ブルジョワアメリカ国籍取得。MoMAが<眠る人物>を購入。

1952
1月19日、ブルジョワが舞台装置を担当したエリック・ホーキンズのダンス『月の花婿』が、ニューヨークのハンター劇場で上演される。

1953~6
1953年4月、ペリドット・ギャラリーで3回目の個展「彫刻と彫刻のためのデッサン」開催。墨汁の一連のデッサンと、のちに<夜の庭>として知られるようになる<森>を含む2点か3点の彫刻を展示した。この作品は彼女の自然と人体の双方を暗喩的に想起させる、有機的で変幻自在な彫刻の最初のものであった。

ゴールドウォーターが「ニューヨークの彫刻の現況」と題する記事でブルジョワに言及し、彼女の木の作品の1つの図版を掲載する。『シメーズ』誌、1956年11/12月号。
ブルジョワ、シカゴのアラン・フラムキン、ニューヨークのステイブル・ギャラリーやポインデクスター・ギャラリー、ホイットニー美術館年次展などのグループ展に参加。ホイットニーは1956年に<1人とほかの人々>購入。

1958
ブルジョワは「スタイフェサント・フォリー」を去って西22丁目街に引っ越し、4年間そこに住む。

1959
イサカのコーネル大学のアンドリュー・ディクソン・ホワイト美術館における現代美術フェスティヴァルに参加。<メムリングの夜明け>、<眠る人物>、<ニッチのための人物群>、<1人とほかの人々>を含む11点の垂直の木の彫刻を出品。


1960~70

1960
パリのクロード・ベルナール・ギャラリーの「アメリカ彫刻の諸相」展に参加。
アメリカのさまざまな機関で教え始める。

1962
西22丁目街から西20丁目街に転居。現在もそこに居住。

1964
1月、アーサー・ドレクスラーの勧めによりステイブル・ギャラリーで個展開催。展示内容は、<棲みか>、<L.のためのロンド−>、<迷宮の塔>、<縫い物をする妖精>、<静物>などの1ダースほどの石膏彫刻、<肖像>、<真夜中の庭>などの何点かのラテックスの作品、以前に制作した木の垂直の作品。
この彫刻展はローズ・フリード・ギャラリーのデッサンと水彩画の展覧会と同時期開催であった。ダニエル・ロビンズが『ルイーズ・ブルジョワのデッサン』と題するカタログに一文を寄せ、『国際芸術』誌に彼女の作品についてのより長く詳細な記事を書いた。

1965
「批評家の選択」と題する記事の中で、ミシェル・スーホルは「ニューヨークにいるルイーズ・ブルジョワはこれまで長いあいだ非常に率直でありながら奇妙な機知に富んだ記念物を制作してきた。彼女はそれを「驚いている形」とか、「眠る人物」とか呼んでいる。・・・彼女の作品は若いアメリカの彫刻家に明白な影響を与えている。この記事には1955年作の3点の松材の<人物たち>が複製されている。
4/5月、パリの「第17回若手彫刻家」展の一環でロダン美術館の庭に<縫い物をする妖精>を展示。
6~10月、ブルジョワロダン美術館で開催された、ニューヨーク近代美術館国際評議会後援のグループ展「アメリカ合衆国の20世紀の彫刻」に参加。1950年の木の彫刻を1959年にブロンズで再制作した<眠る人物II>を出品。

1966
9月、ブルジョワはルーシー・リパードがニューヨークのフィッシュバッハ・ギャラリーで企画した「奇妙な抽象」展に参加。
カンヴァスとラテックスで大作<眼差し>制作。
この頃からアメリカ合衆国フェミニスト運動に加わり、1970年代におこなわれたフェミニストのアート・イヴェントに積極的に参加する。

1967
『アート・フォーラム』誌に掲載された「アメリカ彫刻の1950年代の状況」と題する記事で、ウェイン・アンダースンがルイーズ・ブルジョワの50年代のアート・シーンにおける役割について論ずる。
ピエトラサンタの大理石で制作するために最初のイタリア旅行。1972年まで年に1、2度たいていは夏に彼女は同所を訪れている。彼女は少なくとも13点の大型の大理石作品を制作した。<眠りII>(1967年)、<コロナータ>と<クラマール>(1968年)など。またピエトラサンタのブロンズ鋳造所でも仕事をした。

1968
ブルジョワは2点の吊り下げ式彫刻を制作。<小さな少女>(ラテックス)、<花咲くヤヌス>(ブロンズ版が3個存在)。これらは彼女の作品のあからさまな性的性格を誇示している。「昔屋根裏部屋があった。その階の梁はむき出しになっていた。私の父は上質の家具に夢中で、たくさんの木の椅子がそこに吊されてあった。その場所はとても純粋で、タピスリはなくて木だけがあった。椅子たちが順序よく吊されているのを見上げることができた。床もむき出しだった。それはとても印象的で、私のたくさんの吊り下げ彫刻の源泉であった」。 

1969
5/6月、ブルジョワ、パリの「第21回若手彫刻家の年次展」に参加。ブロンズ作品でのちに<接点>と改題した<彫刻>(1967~68年制作)を出品。これは1973年メトロポリタン美術館が購入した。
『国際美術』誌の記事で、ウィリアム・ルービンがブルジョワの時代の彫刻と絵画に関して果たした役割について論ずる。図版には<静物>、<柔らかい彫刻>、<モロトフ・カクテル>が掲載されている。
雲のかたちをした大理石の<蓄積I>を制作。


1970~80

1970
ブルジョワ、石膏の<ウサギ>制作(ブロンズの第2ヴァージョンが存在する)。<女−棒杭>と、2点の大理石彫刻<女−ナイフ>および<バロック>制作。

1971
J.-パトリス・マランデルが『国際美術』誌の記事でブルジョワのイタリアでの活動について述べ、6点の大理石彫刻の図版を掲載する。
<トラーニの挿話>制作開始。

1973
1月、ブルジョワはホイットニー・ビエンナーレに前年に制作した大型の大理石作品<72番>(のちに<ノー・マーチ>として知られるようになる)を出品。
3月、夫ロバート・ゴールドウォーター没。国民芸術基金から芸術家助成を受ける。
(ニューヨークの)近代美術館のストライキのデモ行進に「ノー」とくり返し書いたバナーを持って参加。
パリの近代美術館、<蓄積I>を購入(1969年制作)。

1974
12月、グリーン・ストリート・ギャラリーで個展「1970年から1974年の彫刻」開催。大がかりなインスタレーション<父の破壊>のほかに、大理石の<目から目へ>、<コロナータ>、<バロック>、<システムズ>、<泉>、ブロンズの吊り下げ彫刻<ヤヌス>の連作、石膏の<トラーニの挿話>を展示。カール・R.・ボールドウィンの展評が『アメリカの美術』誌に掲載される。
ブルジョワアメリカの多くの学校で教え続ける。

1975
ルーシー・R.・リッパード、『アートフォーラム』誌にブルジョワの作品全般についての記事執筆。掲載図版は<父の破壊>(表紙)ほか1940年代から当時までの14点で、<盲人を導く盲人>、<トラーニの挿話>、<フィエット>、<女−ナイフ>を含む。
リン・ブリューメンタール、ケイト・ホースフィールドがブルジョワのインタビューのヴィデオテープ製作。そこで彼女は家族的背景、フランスで受けた教育、制作プロセス、幾つかの作品の背後のインスピレーションについて語っている。
ブルジョワ、モンクレア美術館でのかつての師の1人ヴァクラフ・ヴィシアシルの展覧会と彼の弟子たちの展覧会の協賛者の1人となる。

1976
スシ・ブロッホブルジョワのインタビューを『アート・ジャーナル』誌に掲載。1940年代末から50年代初めに力点が置かれている。
ブルジョワ、ホイットニー美術館の「アメリカ彫刻の200年」展で重要な位置を与えられている。

1977
ブルジョワウィスコンシン州マディソンのエルヴェージェム・アート・センターで開催されたアトリエ17の回顧展に参加。
イェール大学、ブルジョワに美術部門の名誉博士号授与。

1978
ブルジョワ、ほぼ同時に開催された2つの個展でアメリカ国内での名声を確実なものにする。9月にニューヨークのハミルトン現代美術ギャラリーとグザビエ・フルカード・ギャラリー。ついで12月にはバークレーの大学付属アート・ギャラリー。
ハミルトン・ギャラリーで彼女は環境彫刻の<衝突>および2点の<ジャーミナル>や<衝突の制御>を含む小品9点と、<吊り下げられたヤヌス>のテラコッタ版を展示。
ブルジョワ、彫刻<衝突>の周りでのパフォーマンス<バンケット/身体部分のファッション・ショー>を企画。人々は棺のような形の箱の中に坐ったり立ったりし、彼女のデザインした服を着た友人や学生たちが、台本に従い、ファッションやパンクな世界を連想させる音楽に合わせて歩いた。
フルカード・ギャラリーには木の彫刻のシリーズ<彫刻I>から<彫刻IV>まで、金属の<壊れやすい家>、近作のデッサン一揃いなどを出品。バークレーの展覧会では<壊れやすい家>、<5人の住みか>、<レーダー>を展示。
アメリカ共通役務庁から、ニュー・ハンプシャーマンチェスターのノリス・コットン・フェデラル・ビルディング(連邦政府庁舎)のために屋外彫刻<太陽に向かう切り子面>を委嘱される。
デトロイト美術研究所が<盲人を導く盲人>の1点を購入。ニューヨークのマウンテンヴィルのストーム・キング・アート・センターは<72番(ノー・マーチ)>を購入。

1979
9月、グザビエ・フルカード・ギャラリーの個展で木の33点の像と近作<部分的な記憶>を展示。
エレノア・マンローが著書『独創的な人々:アメリカの女性芸術家』(ニューヨーク、サイモン&シュースター、1979刊)でブルジョワに言及。<盲人を導く盲人>と<衝突>の図版掲載。


1980~90

1980
マックス・ハッチンソン・ギャラリーとグザビエ・フルカード・ギャラリーでの9月の2つの個展では、ブルジョワの初期の作品と現在のアート・シーンにおけるその再発見が強調された。
ハッチンソン・ギャラリーの「ルイーズ・ブルジョワ図像学」展では、<償い>、<コネティカッティアーナ>、4点の<女−家>、<墜ちた女>、<紅い部屋>、<屋根の歌>を含む30点あまりの初期の絵画、1942~74年の約35点のデッサン、1940年代以降の12点の版画が展示された。このときのカタログには31の図版とジェリー・ゴロヴォイのエッセイが掲載されている。
グザビエ・フルカード・ギャラリーでの「ルイーズ・ブルジョワの彫刻:中間の時代:1955~70」展には、<クラマール>、<目から目へ>、<コロナータ>、<バロック>、<眠りII>を含む大理石、<トルソ/自刻像>を含むブロンズ、<トラーニの挿話>の花崗岩ヴァージョンが出品された。
ブルジョワ、1978年のハミルトン・ギャラリーでのパフォーマンスのための衣装を着けて『ヴォーグ』のための写真を撮る。カーター・ラドクリフが寄稿した、彼女の作品歴をたどって作品の裏にある心理的動機を探究する記事のためであった。
ブルジョワはブルックリンに広いロフトを購入し、アトリエと倉庫として使用。
キャンベラのオーストラリア国立美術館、<C.O.Y.O.T.E.>を購入。これは<盲人を導く盲人>(1947~49年)の2つ目のピンクのヴァージョンである。

1981
シカゴ大学ルネサンス協会、1940年から70年までの作品31点を集めた個展「ルイーズ・ブルジョワ:女−家」を主催。そこには1978年の2点のブロンズの<壊れやすい家>、<彼は完全な沈黙のなかに消えた>からの一連の版画が含まれていた。カタログには6点の図版とJ.-パトリス・マランデルのエッセイ「ルイーズ・ブルジョワ、内面から」が掲載されている。
ケイ・ラーソンが『アートニューズ』の「芸術家と批評家は見ている」の1回としてブルジョワをインタビューする。
1972年以来初めてイタリアに行き、主にカラーラで<無害な女>と<女−ナイフ>のテーマを中心に20点あまりの大理石作品を生産。また最大の大理石作品<女−家81>を制作。

1982
1982年11月から83年2月まで、ニューヨーク近代美術館にてブルジョワの最初の公式大回顧展開催。主担当は版画・挿絵入り書籍部門の準学芸員デボラ・ワイで、絵画彫刻部門の学芸員アリシア・レッグが協力。本展覧会には100点あまりの作品が出品され、1940年代初め(初期の木の柱のような人物像)から、1960,70、80年代の非常に刺激的な彫刻にいたるまでのブルジョワのキャリアをほぼ網羅している。ほかには絵画、デッサン、版画のセレクションがあり、彼女の展開を一望することができる。カタログにはウィリアム・ルービンの序文、ワイのエッセイ、多数の未刊行の文書や図版が掲載されている。
12月、ロバート・ミラー・ギャラリー主催による最初の個展「ブルジョワの真実」。ロバート・ピンカス=ウィットンがカタログ執筆。図版としては、初期の木の作品(<ジャン=ルイの肖像>、<訪問者たちが玄関にやって来る>、<らせんの女>、<C.O.Y.O.T.E.>)、1962年の石膏作品(<迷宮の塔>と<抱擁>)、1982年のブロンズ鋳造作品、1960年代の他の石膏作品、大理石の近作(<墜ちた女>、<女−家>)、およびデッサン(1948年頃~51年)。
この後ロバート・ミラーはブルジョワの公式取り扱いギャラリーとなり、規則的に彼女の作品を展示する。
ブルジョワは初めて子供時代の写真(フランスの家、両親、イギリス人家庭教師セイディ)を添えた自伝的記事を発表する。掲載誌は『アートフォーラム』12月号、タイトルは「ルイーズ・ブルジョワによるプロジェクト:子供の虐待」。
<墜ちた女>の白大理石と黒大理石の2つのヴァージョン制作。

1983
ルイーズ・ブルジョワについての最初の映画<部分的な想起>がニューヨークの近代美術館によって制作される。
同近代美術館の大回顧展が、ヒューストン現代美術館、シカゴ現代美術館、オハイオ州のアクロン美術館に巡回(1983年3月~84年3月)。
<女−家>、<湾曲した家>制作(スイス、ベルン美術館蔵)。

1984
9/10月、ロバート・ミラー・ギャラリーでの個展<ルイーズ・ブルジョワ、彫刻>で最新の作品発表。<自然の研究>連作(<びろうどの眼>、<らせんの女>、<目隠し鬼>その他)。
ロサンジェルスとサンフランシスコのワインズバーグ・ギャラリーで個展。

1985
2/3月、パリのマーグ=ルロン・ギャラリーが、フランス初のルイーズ・ブルジョワ展を開催。チューリヒのマーグ=ルロン・ギャラリーに巡回。<盲人を導く盲人>(1947~9年)から<自然の研究>(1984年)までの50点あまりの作品が展示される。
1940年代と50年代の木の彫刻に加え、1960年代の石膏と大理石作品と、のちのブロンズのヴァージョン。カタログにはジャン・フレモンとロバート・ストウのテキストと多数の図版が掲載されている。
5/6月、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで「ルイーズ・ブルジョワ」と題する展覧会開催。
ブルジョワ、<アンリエット>と題する姉の脚を暗示する1本の脚のブロンズ作品を制作。

1986
6/7月、ロバート・ミラー・ギャラリーでの「ルイーズ・ブルジョワ展」で、最新の彫刻展示。<連関した住みか>、<雌狐>、<自然の研究>(ホイットニー美術館蔵)。ジェリー・ゴロヴォイが
この展覧会の小冊子『ルイーズ・ブルジョワ』を刊行し、「ルイーズ・ブルジョワ、抽象の本質」を執筆。この小冊子にはロバート・ミラー・ギャラリーで展示された作品のほかに、1947年から60年代までの彫刻とデッサンの図版が掲載されている。
 ヒューストンのテキサス・ギャラリーで「ルイーズ・ブルジョワ、彫刻とデッサン」展。
 <脚>(ゴム)、<ハクトウワシ>(大理石)、<家>(金属と石膏>。

 1987
 1月、ロバート・ミラー・ギャラリーで「1940年代の絵画」展。1946年から9年の11点の絵画。
 5/6月、シンシナティのタフト美術館で始まった展覧会が1988年と89年にアメリカ国内を巡回。マイアミ、オースティン、セント・ルイス、シアトル、シラキュース。カタログにはスチュアート・モーガンのエッセイ掲載。

1988
1月、ロバート・ミラー・ギャラリーで「ルイーズ・ブルジョワの1939~87年のデッサン」展。178点のデッサンと大理石彫刻<蛇の形>。パリのギャルリー・ルロンとの協働でジョン・チェイムとジェリー・ゴロヴォイが『ルイーズ・ブルジョワのデッサン』刊行。序文はロバート・ストウ。
10~12月、アムステルダムのオーヴァーホランド美術館、「ルイーズ・ブルジョワ、紙に描いた作品」展主催。カタログ執筆はロバート・ストウ。
ブルジョワ、大理石作品<帆>および環境彫刻<出口なし>(フランスのリヨン・ビエンナーレに出品ののちニューヨークの近代美術館購入)制作。

1989
ルイーズ・ブルジョワについての多数の記事。
5~8月、ルイーズ・ブルジョワ、<連関した住みか>(1986年)を、ジャン=ユベール・マルタン企画のパリのポンピドー・センターとラ・ヴィレット大ホールで開催された大展覧会「大地の魔術師」展に出品。
12月、フランクフルト芸術協会のペーター・ヴァイヤーメアがブルジョワ初のヨーロッパ巡回展企画。フランクフルト、ミュンヘン、リヨン、バルセロナ、ベルン、オッテルロー、1991年7月にルツェルンで終了。カタログにはルーシー・R.・リッパード、ロバート・ストウ、ロザリンド・クラウス、トマス・マック・エヴィリーが寄稿。
フランスの「国立現代美術基金」が、ブルジョワの1947~51年のデッサンを購入。
ブルジョワ、もう1つの環境彫刻<逃げ道なし>と、数点の大理石彫刻<無題(脚)>、<無題(成長)>、<無題(手)>制作。


1990~95

1990
2/3月、ミュンヘンのバーバラ・グロス・ギャラリー、「ルイーズ・ブルジョワの版画と素描」展開催。
4/5月、ロンドンのカールステン・シューベルト・ギャラリーの展示「ルイーズ・ブルジョワのデッサン」。5/6月、リヴァーサイド・スタジオがフランクフルトの「ルイーズ・ブルジョワの近作、1984~89年」を縮小した展示をおこなう。カタログにはスチュアート・モーガンのエッセイ収録。
10/11月、ケルンのカールステン・グレーヴェ・ギャラリーが「40年代と50年代のブロンズ作品」を展示。
フランクフルト芸術協会の巡回回顧展が大々的にマスメディアに取り上げられる。ブルジョワ、『アートフォーラム』誌に「フロイトの玩具」と題する記事を寄稿。
ブルジョワ、複数の文章に30点の版画を付した『ピューリタン』をオシリス・プレスから刊行。何点かの彫刻を制作。<心臓>、<弛緩した女>、<羊毛を集める>、<吸い玉>。

1991
2/3月、チューリヒのルロン・ギャラリー、ブルジョワの版画作品展示。<クァランタニア>(1947、1990年の刷り)、<彼は完全な沈黙のなかに消えた>(1947年)、<ピューリタン>(1990年)。
フランス文化省、彫刻大賞をルイーズ・ブルジョワに授賞。
10/11月、ロバート・ミラー・ギャラリー、「ルイーズ・ブルジョワの近作彫刻」展開催。<吸い玉>、<乳房>、<絡み合う脚>、<弛緩した女>。
1991年12月~1992年1月、MoMAでロバート・ストーが立ちあげたグループ展「分解」に可動彫刻<二人組>展示。
<挑戦>(グッゲンハイム美術館)、<セルI>から<セルIV>シリーズ(ピッツバーグカーネギー・インターナショナルで展示)を制作。

1992
ブルジョワ、『アートフォーラム』誌に、米仏混血のアーティスト、ガストン・ラシェーズについての「オブセッション」と題する記事を執筆。ラシェーズの作品は、1965年にパリのロダン美術館で開催された「アメリカ合衆国の20世紀の彫刻」展に出品されていた。
出版業者ピーター・ブルームの勧めで、アーサー・ミラーとルイーズ・ブルジョワは『家庭的な娘の伝記』を出版。これには1991年のミラーの文章と、ブルジョワの19点のドライ・ポイントと、眼球を示した8点の医学用プレートをリトグラフ製版したものが含まれていた。
5月12日、新たなインスタレーション<彼女はそれを失った>の展示開始。それには「1人の女と1人の男は一緒に暮らした」とシルクスクリーンでプリントした5メートル半の旗が含まれていた。これはルイーズ・ブルジョワとアンヌ・ダルノンクールを顕彰する年次助成15周年のために、布工房(フィラデルフィアのファブリック・ワークショップ)と連携して制作された。
12月5日、ブルジョワは布工房のパフォーマンスで、ロバート・ストウを布で巻き、それを解いた。
6/9月、カッセル・ドクメンタIXのオーガナイザーのヤン・ウィットが、ブルジョワの最新の環境作品の展示を決定した。1991年に制作開始したこの<貴重な水>は、「ガラスとボールの連なりに満たされた小部屋」(6月19日『ル・モンド』紙、ジュヌヴィエーヴ・ブレーテ)は、ニューヨークの典型的な貯水タンクを元に作られた。
この作品は同年パリの近代美術館に購入された。
1992年10月から93年1月、パリのカールステン・グレーヴェが近年の何点かの素描と彫刻のシリーズ<ニードルズ>を展示。後者には、<ニードル(錘)>と<重り>が含まれていた。

1993
ブルジョワは<セル>シリーズの制作を続け、完成した。<セル(ヒステリーのアーチ)>、<セル(ショワジー)>、<セル(ガラスの球体と手)>、<セル(眼と鏡)>。これらの作品はヴェネツィアビエンナーレで展示された。ロンドンのテート・ギャラリーが<セル(眼と鏡)>購入。
2~5月、ケルンのカールステン・グレーヴェ・ギャラリー、「ルイーズ・ブルジョワの彫刻とインスタレーション」と題する展示開催。蜘蛛の彫刻1点と蜘蛛のテーマに関する水彩画群。
テラ・ルナ・フィルムスとポンピドー・センター共同でカミーユ・ギシャールの映画『ルイーズ・ブルジョワ』制作。そのなかで彼女はベルナール・マルカデとジェリー・ゴロヴォイを相手に話している。
6~10月、ブルジョワ、第45回ヴェネツィアビエンナーレアメリカ合衆国代表に選出される。ブルックリン・ミュージアムのシャーロッタ・コティックが、ヴェネツィアの会場のアメリカ館におけるブルジョワ近作の展示を担当する。
9 /10月、ブルジョワ、ティエリー・ラスパイユとティエリー・プラットが組織した第2回リヨン現代美術ビエンナーレ「そして彼ら全員で世界を変える」で、<セル(あなたは大人になった方がよい)>を展示する。
<セル(3つの白大理石の球)>制作。
シカゴとショワジー=ル=ロワ(フランス)からの都市関連の委嘱を受ける。

1994
MoMAでのミロ回顧展に合わせ、『アート・フォーラム』誌にミロについての記事を寄稿する。
ナイジェル・フィンチ監督、ルイーズ・ブルジョワについての55分のフィルムをロンドンのアリーナ・フィルムズとBBCのために製作。
ブルックリン・ミュージアム、1982年から1993年までのブルジョワの作品の大展覧会企画開催。シャーロッタ・コティック、図版がきわめて豊富な著書『ルイーズ・ブルジョワ、記憶の場所』を刊行。これにはコティック自身の論考「記憶の場所」以外に、テリー・サルタンの「関与の方法の再定義:ルイーズ・ブルジョワの芸術」、クリスチャン・リーの「B婦人のイヤリング:ルイーズ・ブルジョワと不気味なものの遭遇の場」、そして多様な筆者のアンソロジーが掲載されている。この展覧会はのちにワシントンのコーコラン・ギャラリーに巡回。
1994年 6月~1995年1月、ハノーヴァーのケストナー・ソサイエティで近作の大展覧会「彫刻とインスタレーション」開催。カタログにはブルジョワ自身の声明とカーステン・アーレンス、バーバラ・カトワール、ドリス・フォン・ドラーテン、ジェリー・ゴロヴォイ、ロバート・ストウの論考所収。
9月、ブルジョワは最新の環境彫刻<紅い部屋>(<紅い部屋−両親>と<紅い部屋−子供>)と、版画<紅い部屋のための三幅対>をニューヨークのピーター・ブルームで展示。この展示はブルームによる『アルバム』(ブルジョワ自身のコメントつきの子供時代の写真集)の刊行と同時におこなわれた。
9~11月、ブルジョワは<巣>(1994)と蜘蛛の素描を、ゲント現代美術館の「これはショー、そしてショーは沢山のこと」展に出品。ニューヨークのMoMAが、ブルジョワの版画作品の回顧展開催。デボラ・ワイとキャロル・スミスが『ルイーズ・ブルジョワの版画の解説付き総目録』を出版。
1995年
2~4月、パリの国立近代美術館グラフィック・アート部門が、「ルイーズ・ブルジョワ、思考とペン」展開催。マリ−=ロール・ベルナダックによるカタログにはデボラ・ワイの文章も収められている。
同時にMoMAが企画した版画展が、フランス国立図書館によって「ルイーズ・ブルジョワ、版画」というタイトルで再展示される。
6~9月、パリ市立近代美術館が、「ルイーズ・ブルジョワ回顧、1944年から1994年までの彫刻、インスタレーション、素描」展開催。
10~12月、オクスフォードの現代美術館が、MoMAの版画展とブルジョワの彫刻展開催。

 

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