arttoki2022’s blog

©︎2022 arttoki2022's blog

8 デーヴィッド・アーウィン著/鈴木杜幾子訳『新古典主義』(2001年 岩波書店)のこと その②(コピーや転載は固くお断りします)

まず目次から。

この目次は、一見新古典主義を「初期、盛期、その後」の三期に分けているように見える。けれども1〜9の各章の内容は実に多岐にわたっている。新古典主義を数十文字で定義するとすれば次のようになるだろう。「新古典主義は、18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、西欧で建築・絵画・彫刻など美術分野で支配的となった芸術思潮を指す。それまでの装飾的・官能的なバロックロココの流行に対する反発を背景に、より確固とした荘重な様式を求めて古典古代、とりわけギリシアの芸術が模範とされた」(日本語版ウィキペディア冒頭:2023年6月2日21時20分)。これはこれで間違いではなく、むしろ新古典主義の基本のキであるといえよう。だがここに書かれている要素は、18〜19世紀という時代、地域(西欧)、(荘重な)様式、淵源(ギリシャ)についてに限られている。一方本書の1〜9の各章が、この無味乾燥な定義とはくらべようもなく多彩で魅惑に満ちていることは、各標題を一瞥しただけで想像ができるだろう。以下簡単に紹介しよう。
ギリシャ・ローマ(古典古代)の伝統がないヨーロッパの北の国々、特にイギリスの(裕福な)若者は、教育の総仕上げとしてイタリアに旅した(=1)。彼らは古典古代の伝統的建築を絵に描き、図面に起こして持ちかえり(自分に絵心がないときには画家や建築家を連れて行った)、北の国々には装飾過多なバロック風建築の代わりにギリシャ神殿風だったりローマのパンテオン風だったりする簡素な建築が建てられるようになった(=2)。
絵画にも美徳溢れる古代ローマの物語やギリシャの英雄譚が、ギリシャ彫刻のように理想化された人物によって表されるようになった(=3)。古代の庭園はむろん残っていないから、新しい庭園は、イタリアやイタリアに留学した画家たちが古代の庭園や風景を想像して描いた絵を手本に造園された(=4)。新様式の建築や庭園を飾る装飾品や彫刻も「ギリシャ風」をモットーに盛んに制作販売され、その利潤は工房を所有する王族にもたらされることも多かった。高邁と思われる新古典主義時代は意外に商魂たくましい時代だったのである(=5)。
高邁な新古典主義は世俗の歴史に疎かったか。とんでもない、この時代に起きた革命その他の政治的大事件の各派閥は、新古典主義美術を自分の陣営のプロパガンダとして用いた(=6)。しかも新古典主義はウィキの言うように「西欧」には限られていず、アメリカやオーストラリアにまで「宗主国」の流行として伝えられ、ワシントンD.C.のナショナル・モールなどに至っては、それこそ「ギリシャ人もびっくり」な古典主義建築の連なりである(=7)。結果、19世紀になると世界中の都市住民は都心に出かけるたびにギリシャ風の建物を目にし、懐具合に応じて新古典主義テイストが感じられる家具や置物を買ったりもしたのである(=8)。本書の著者アーウィンは心の広い人で、新時代の素材で造られたクリスタル・パレスや日いずる国(最果てとも言う)の建築家桜井正太郎設計の横浜正金銀行神戸支店(現神戸市立博物館)も新古典主義の仲間に入れ、反逆精神旺盛な現代美術家フィンレイのスコットランドの庭園<リトル・スパルタ>で本書を締めくくっている(=9)。
かつて美術史の知人に「あなたは本当に新古典主義が好きなのか?」と真顔で尋ねられたことがある。フランス人の彼女は日本美術史専攻で、西洋の真髄ともいうべき新古典主義を無味乾燥で非人間的で退屈な美術と考えていたのだろう。不幸なことに新古典主義ナチス・ドイツを始め、全体主義国家の公共建築にしばしば用いられたから、その影響もあったかもしれない。だが、本来の新古典主義は1〜9で紹介したように俗で多彩な無数の顔を持っているのである。
時々筆者は、新古典主義時代と20世紀初めのアール・デコの時代が、ピュアな形態感覚、商業主義、国際的拡がり、分野の多彩さ、多くの要素が時代を超えて継承された点などにおいて共通の性格を示しているように感じる。次世代の研究者の方々がそういう視点を検討して下されば嬉しいが、現在の美術史研究は個別テーマを掘り下げる方向に進んでいるから、そのような総論が書かれる機会はなさそうだ。