arttoki2022’s blog

©︎2022 arttoki2022's blog

12 翻訳:ルーシー・リッパード「奇妙な抽象」③の3 注など (コピーや転載は固くお断りします)

「奇妙な抽象」注など

* 『アート・インターナショナル』第X巻第9号(1966年11月)より、若干カットし、再構成して再録。この記事は、1966年夏にカリフォルニア大学バークレー校とロサンゼルス郡立美術館で行われたレクチャーと、1966年10月にニューヨークのフィッシュバッハ・ギャラリーで開催された同名の展覧会のカタログの基礎となった(出品作家はアダムズ、ブルジョワ、ヘッセ、キューン、ナウマン、ポッツ、ソニエ、ヴィナー)。この展覧会が法外に注目されたのは、出品作家の何人かが今ではあまりにも有名になったからだ。彼らの作品は、プライマリー・ストラクチャーとミニマル・アートの全盛期であった1966年当時は、今日よりもずっと「エキセントリック」であった。エキゾチックな要素のほとんどはすぐに排除された。当時、私はこの作品の意味を十分に理解しておらず、シュルレアリスムとの関連を強調しすぎていた。ロバート・モリスの「アンチ・フォーム」についての記事(『アートフォーラム』1968年4月号)は、素材の性質と物理現象が多くの新しい彫刻の形を決定するありようについて、より明確に論じている。この年の彼自身のフェルト作品は、ナウマンのラバー・ストリーマー(複数形)やランダム・ピース(複数形)、そしておそらくバリー・ル・ヴァやヨーゼフ・ボイスの作品を前提にしている。それ以来、「アンチ・フォーム」の傾向全体がモリスの手によるものとされているが、ヨーロッパでもアメリカでも、多くの若いアーティストたちが同時にこのイディオムを展開していた。

(✧1) 私はもはや、「非彫刻的」も「反彫刻的」も、形容詞として意味をなさないと思う。この文章が書かれた当時は、伝統的な彫刻から離れようとする動きの先鋭性を示唆するには、これらの言葉しかないと思われた。それからわずか4年後の今、このラディカルな性質は当たり前のものとみなされている。絵画と彫刻、あるいは「平面と立体」の区別はほとんど完全に克服された。 同様に、芸術と非芸術の区別(=「しかしそれは芸術か?」という問い)は時間の無駄だ。すぐに時代遅れになるような意味論的なラベルや理論化を考案して時間を浪費するくらいなら、すべてを芸術と呼んだほうがいい。

(注1) 筆者は、紙面の都合で割愛したアメリカ人はいうに及ばず、他の国のアーティスト(例えばイギリスのバリー・フラナガンやアルゼンチンのエミリオ・レワート)も同じような方向で活動していることを示す図版を見たことがある。
 
(✧2)その当時、私はドイツ人の先駆的な作品を知らなかった。

 (注2) 靉嘔、ルーカス・サマラス、リンゼイ・デッカー、ヴレダ・パリスなどは、箱、ヴィトリン、台といった従来の形式を捨てずに、同様の融合を達成している。これらは、形態を隔離し、それらが見られる空間をコントロールすると同時に、傘とミシンが出会った有名なシュルレアリスムの解剖台と対をなすものでもある。このような奇妙な隔離の手段としての台や箱の使用は、デ・キリコの空の広場、エルンスト(そしてダリやタンギー)の広い平原、ジャコメッティシュルレアリスムとそれ以降の彫刻、そしてシュルレアリスムのオブジェ一般にまで遡ることができる。

(注3)この文脈における19世紀について示唆を与えてくれたエリザベス・ギルモア・ホルトに感謝する。

(注4)クルト・フォン・マイヤーとカルル・ベルツ「ファンクの街: 西海岸のシーン」、『アートとオーストラリア』第3巻第3号(1965年12月)201頁。

(注5) バーバラ・ローズ「不潔な絵:嗜好の歴史におけるいくつかの章」、『アートフォーラム』第3巻第8号(1965年5月)24頁。

(注6) G. R.スヴェンソン『別の伝統』(フィラデルフィア、現代美術研究所、1965年)参照。

(注7)「馬の毛の手袋」より。マルセル・レイモン『ボードレールからシュルレアリスムへ』(ニューヨーク:ウィッテンボーン、シュルツ社、1950年)288頁に引用。