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13 国際美術館立国際美術館「コレクション2 身体−−−身体」展。(コピーや転載は固くお断りします)

ルイーズ・ブルジョワ <カップル>(1996)(筆者撮影)

    

ルイーズ・ブルジョワの新収蔵作品の初公開を兼ねて、コレクションからテーマに沿う作品を5章に分けて展示。西洋美術史においては「身体と美術」と言う言葉は「美術と美術」というのと同じ、というのを持論としてきた私としては行かないわけにはゆかない。公開であるにもかかわらずほとんど読者のいない私のブログには、ルイーズ・ブルジョワについてこれまで書いた僅かな文章と、基本文献2点の何十頁にもわたるブルジョワの年表の邦訳を掲載しているが、その後の研究の行方が杳として知れないのが残念なところである。
待望の作品に近づくときにひさしぶりに胸が高鳴った。ガラスケースのなかに「これぞルイーズ・ブルジョワ!」という作品。縞模様のワイシャツを着た人体が、衿に手編みのレースをあしらった黒い服の人体に覆い被さるように抱きしめている。人体であることに疑念は湧かないが、首も下半身も手首から先もなく、残った部分も純粋なかたちとしては人体というよりも枕かクッションに近い。ケースの脚が長いために作品の位置が高く宙に浮き、しかも四方から見られるので、二体がとてもヴァルネラブルに感じる。20世紀前半の欧米の市民階級の服装をした二体は胴体だけになって永遠に抱き合っている。誰もいない家の中で突発的に行われた行為が四肢も首も奪われて人々の目にさらされているという痛ましさがテーマなのかもしれない。下半身がないせいか、性的な群像というよりは宿命的に結び合わされた(というか、貼り合わされた)二体に見える。ワイシャツの衿とレースの衿の黄ばみは制作以前、屋根裏に古着がしまわれていた年月の名残に見える。
ルイーズ・ブルジョワは、彫刻家として作品の脇に立つ写真でも「ブルジョワ」的なシルク、レース、上質のウールのように見える服装で写っている。少女のころからシャネルの子供服を着ていた彼女のアイデンティティを支えていたのがそうした衣裳であったことは、昔の服や下着をフランスの実家から取り寄せて晩年のインスタレーションに使っていることからも想像できる。本作品は、ないとは思うがもし私がルイーズ・ブルジョワ伝を書くことがあったら表紙にしたいと思うほど、彼女の本質を示している感がある。
第3章は「女性の美術家と彫刻家」。単に作家が女性という分類ではない。ルイーズ・ブルジョワと同時代や後の時代の彫刻家としての認知を得にくかった女性たちによる、さまざまな手法で自分の女性性を含みこんでいる作品たち(平面的な作品も)。草間彌生、イケムラレイコ、キキ・スミス、塩田千春ほか。シェリー・レヴィーンは、ブランクーシのブロンズ製の金や白の<ニューボーン>の形とサイズをそのままに、黒く輝くガラスで複製して<ブラック・ニューボーン>(黒人の新生児)として制作。
第4章「身体という領土」。バーバラ・クルーガーに<あなたの身体は戦場だ>という言葉を含む作品があるが、ここではアーティストたちが自分の身体性から出発して制作することを意味してそれを(自分の)「領土」と呼んでいるのだろうか。双方とも自分の身体を他者が領有することへの告発を含んでいる。オルラン<これが私の身体・・これが私のソフトウェア・・>は、整形手術をくり返すことが制作行為であるこの作家の直近の手術による変色と腫れが残る痛ましい肖像写真。鷹野隆大の<ヨコたわるラフ>シリーズは、肥満と角度のために男性性を直接的には感じさせない裸体男性を西洋絵画の「オダリスク」の系譜を想起させるポーズで写している。「見る者と見られる者=男と女」という硬直した図式に絡めとられている観者を柔らかく優しい世界に包み込んでくれる作品だ。最後の大展示室はブブ・ド・ラ・マドレーヌの<人魚の領土−旗と内蔵>。かつてこの作家はダムタイプの有名な舞台の1つ<S/N>に出演し、股間から万国旗をするすると取り出すパフォーマンスをしたという。また、人魚は人でも魚でもない確とした居場所を持たない存在として作家のアルターエゴ的なイマージュであったようだ。今回のインスタレーションの中心を占める金網でできた人魚の腹が裂け、そこから万国旗やドラァグクィーンの衣裳を思わせる派手な色彩の布でできた何かがこぼれ落ちているように見えるのは、作家の自伝的な要素から来ているらしく、会場の解説は最近作家が病気で卵巣と子宮を摘出したこととこれらの表現を結びつけている。とすれば、作家が自分のすべてを観客の前に投げ出したのがこのインスタレーションだといえるのかもしれない。
寛容に自分を与える本能がある人を作家と呼ぶのだろうか。ブブの作品へのイントロのように展示されているフェリックス・ゴンザレス=トレスの別の有名なインスタレーションに、エイズに罹患した同性の恋人と自分の体重を合わせただけの重量の銀色の紙に包まれたキャンディを展示室の隅に砂山のように積み上げ、観者はそれを1つずつ持ちかえってよいというものを見たことがある。一見「楽しい参加型アート」に見えるそれが一組の恋人たちの命を削る作業に思えてキャンディを拾い上げられなかったことを記憶している。そこに影すらも見えない作家だが、キャンディの重みに託して自らの肉体を見も知らぬ観者たちにさらけ出し、ゆだねている。それは自他の境界を開放することであって、あなたにも私にも、誰にでもできる行為ではないと思う。一方的に展覧会を見る生活に意味がなく感じるのはこういう瞬間である。

*なお、5月まで開催が予定されていたこの展覧会は美術館の都合で数日前に突然終了してしまった。工事都合とのことで仕方がなかったのかもしれないが、残念な思いの人も多かっただろう。