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2 ルイーズ・ブルジョワ年表2の1 (コピーや転載は固くお断りします)

最初にルイーズ・ブルジョワの年表2つの翻訳を投稿します。1つ目は1995年にパリ市立近代美術館で開催された「ルイーズ・ブルジョワ、彫刻、インスタレーション、デッサン」展カタログ掲載のもの。

Louise Bourgeois  Sculptures, environnements, dessins,  expo.catalogue, Musée d’Art moderne de la Ville de Paris, 23 juin~8 octobre 1995, pp.230~233.

1911
ルイーズ・ブルジョワジョゼフィーヌフォリオーとルイ・ブルジョワの間に、12月25日パリで誕生。両親はサンジェルマン大通りの住居の下階にタピスリのギャラリーを所有。
3人姉弟の2番目の娘。姉アンリエット、弟ピエール。

1912
ショワジー=ル=ロワに転居。家族はここに1918年まで居住。

1919~1931
ビエーヴル河畔に土地購入。一家はここに古いタピスリ修理工房を設立。ルイーズには絵の才能があり、タピスリに欠けている部分をデッサンで補う仕事をして家業に参加。
学業も優秀でパリのリセ・フェヌロンに通い、そこでの思い出は良いものだった。父がイギリス人学生の若い愛人サディを家族の住居に住まわせる。サディは10年間3人の子供たちに英語を教える。母が辛抱強く耐え忍んだこの関係への怨恨を、ルイーズは生涯抱き続けることになる。
家族生活のこの時期は、ルイーズの芸術家としての適性の大きな部分を形成した点で重要な役割を果たした。均衡が取れた理性的な性格の女性だった母親はルイーズに安心感を与えたが、彼女は父親に対して、より情熱的な絆を保っていた。未成熟で、専制的で、移り気な性格の父との関係は、ルイーズの芸術家としての生涯に大きな影響を与えた。

1932
バカロレア取得。長く患っていた母没。ソルボンヌで数学の勉強を始めるが、代数学に挫折してすぐに断念。
美術の勉強に方向転換。国立美術学校のアカデミズムから逃れて、真にやりたいことを求めて幾つかの私塾に通う(ランソン、ジュリアン、コラロッシ、グランド・ショミエール)。そのほかに彼女は、ポール・コラン、アンドレ・ロート、ロジェ・ビッシエール、グロメール、フェルナン・レジェの教えを受け、レジェは彼女の関心を彫刻に向けた。
並行して彼女は小規模な展覧会に出品するようになった。

1938
1年前に知り合ったアメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚。2人はニューヨークで生活するために出発。到着後ルイーズはアート・スチューデント・リーグに登録、ヴァクラヴ・ヴィシアシルの教育を受ける。夫婦のあいだには3人の男の子がいいた。最初のミシェルはフランスにいるうちに養子にし、ジャン=ルイは1940年に生まれ、15ヶ月後にアランが生まれた。

1939
ルイーズはアメリカでの作品発表を始める。ニューヨークのブルックリン・ミュージアムの「大量生産のための良質の版画」展がその代表的なものである。

1941
ルイーズ・ブルジョワ、戦争を支援するための幾つかの展覧会(マッソン、カルダーほか)の企画に参加。「勝利のための美術」の示威運動に参加。

1945
「フランス・ドキュメント1940~45 地下運動の時代の美術、文学、出版」展(ニューヨーク、ノーリスト・ギャラリー)を企画。
ニューヨークのバーサ・シェーファー・ギャラリーにて最初の個展。この年から1962年までほぼ毎年、ニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館の「現代アメリカ絵画年次展」に参加。そのほかにも幾つかのグループ展に、しばしば抽象表現主義の芸術家たちとともに参加。

1946
版画制作のため、スタンレー・W・ヘイターのアトリエ17に通う。ル・コルビュジエ、オザンファン、ホアン・ミロマルセル・デュシャンアンドレ・ブルトンイヴ・タンギー等と知り合う。バーサ・シェーファー・ギャラリーでの何度かのグループ展に参加。

1947
ノーリスト・ギャラリーでの2度目の個展で17点の油彩画を展示。かたわらアトリエ17で制作した<彼は完全な沈黙のなかに消えた>と題する版画と詩の一揃いを発表。また、細い縦長の形態の主として木の彫刻群の制作を始める。

1949
ニューヨークのペリドット・ギャラリーにて最初の彫刻展。

1950
「怒れる者たち」のグループと一緒に、ニューヨークのメトロポリタン美術館アメリカ絵画関係の保守的な企画に異議を申し立てる。ペリドット・ギャラリーにて2回目の個展。

1951
父死去。ルイーズはアメリカ国籍を取得する。MoMAが彼女の<眠る人物>(1950)を購入。

1951~60
彼女の彫刻は、ときに捻れた垂直の木や石膏の断片の集合体になり始める。
ホイットニー・アメリカ美術館の「現代アメリカ絵画年次展」、MoMA、リヴァーサイド・ミュージアム(ニューヨーク)のグループ展に参加。単独でペリドット・ギャラリー、ステイブル・ギャラリー、アラン・フラムキンなどのギャラリーで展示。

1960
パリのクロード・ベルナール・ギャラリーの「アメリカ彫刻の諸相」展に参加。

1961~65
公立学校で美術を教える。下記の多数のグループ展に参加。ニューヨークでは、ホイットニー・アメリカ美術館の「現代アメリカ絵画年次展」、MoMA、彫刻家組合、ノア・ゴルドウスキー・ギャラリー、サックス・ギャラリー。ワシントンでは、ワシントン・ギャラリー・オヴ・アート。ニューヨークでの2つの個展は、ローズ・フリード・ギャラリー(デッサン)とステイブル・ギャラリー(彫刻)。
ラテックスや樹脂や布のような柔らかい素材を使い始め、彫刻がより有機的になる。

1965
(パリの)ロダン美術館で2度展示。1度目は「第17回若手彫刻家」展、2度目はMoMA企画の「アメリカ合衆国の20世紀の彫刻」展。

1966
ルーシー・リパードがニューヨークのフィッシュバッハ・ギャラリーで企画した「奇妙な抽象」展に、ブルース・ナウマンエヴァ・ヘス等とともに参加。フェミニストの芸術家たちの示威運動に参加し始め、70年代まで継続。

1967
初めてイタリアに旅してピエトラサンタの採石場を知る。1972年まで幾度か再訪し、近辺の鋳物工場でも作業する。

1973
夫、ロバート・ゴールドウォーター没。ルイーズは国民芸術基金から芸術家助成を受ける。

1974
ニューヨークのグリーン・ストリートのギャラリー112の個展で、インスタレーション<父の破壊>その他を展示。コロンビア大学、クーパー・ユニオン、ニューヨーク・スタジオ・スクール、イエール大学などで教える。

1975
リン・ブリューメンタールとケイト・ホースフィールドによってルイーズ・ブルジョワの対談の映像が作られる(シカゴ美術研究所付属大学ヴィデオ・データ・バンク制作)。

1978
イェール大学美術部門の名誉博士号を授与される。ニューヨークで彼女のために2つの個展が開催される。グザビエ・フルカード・ギャラリーの「三角形:新しい彫刻とデッサン」と、ハミルトン・ギャラリーの「ニューヨーク」である。後者で彼女は彫刻<衝突>の周りでのパフォーマンス<バンケット/身体部分のファッション・ショー>を実施。
ニュー・ハンプシャーマンチェスターのノリス・コットン・フェデラル・ビルディング(連邦政府庁舎)のために、初めての公共空間のための彫刻を制作。

1979
バークレー大学付属美術館にて個展。真の名声確立。

1980
2つの個展開催。第一はマックス・ハッチンソン・ギャラリーでの初期の絵画、デッサン、版画の「ルイーズ・ブルジョワ図像学」展。第二はグザビエ・フルカード・ギャラリーでの大理石、ブロンズ、花崗岩の作品を展示した「中間の時代:1955~70」展。
ブルックリンにアトリエ取得。

1981
シカゴ大学ルネサンス協会による1940年から70年までの彫刻を集めた「ルイーズ・ブルジョワ:女−家」展。
カラーラの大理石を使用するためにイタリア旅行。
ニューヨークのアメリカ芸術科学アカデミーのメンバーに選出。

1982
デボラ・ワイがMoMAにてルイーズ・ブルジョワの最初の大回顧展を企画開催し、彼女の名声は揺るぎないものになった。この展覧会は、ヒューストン現代美術館、シカゴ現代美術館、オハイオ州のアクロン美術館に巡回することになる。一方ロバート・ミラー・ギャラリーが今日まで続く共同企画「ブルジョワの真実」の第1回を開催。

1983
MoMAイーストン財団によって、ルイーズ・ブルジョワの半生を描いた映画<部分的な想起>(18分)完成。

1984
最新の彫刻でロバート・ミラー・ギャラリーでの2度目の個展開催。
カリフォルニア州ロサンジェルスとサンフランシスコで作品展示。
ルイーズ・ブルジョワ、フランス文化大臣から芸術文化勲章オフィシエ章を授与される。

1985
マーグ=ルロン・ギャラリーが、フランス初のルイーズ・ブルジョワ展を開催。
ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーでの個展。
スカウヒーガン絵画彫刻学校の彫刻部門のメダルを授与される。

1986
ロバート・ミラー・ギャラリー(近年の彫刻)と、ヒューストンのテキサス・ギャラリー(彫刻とデッサン)の個展。

1987
ルイーズ・ブルジョワ、ロバート・ミラー・ギャラリーで昔の絵画を展示。1987~89年の巡回展「ルイーズ・ブルジョワ」がシンシナティのタフト美術館で始まる。引き続きマイアミのフロリダ国際大学美術館、テキサス州オースティンのラグーナ・グローリア美術館、ミズーリ州セント・ルイスのワシントン大学美術ギャラリー、シアトルのヘンリー・アート・ギャラリー、ニューヨーク州シラキュースのエヴァーソン美術館。

1988
ロバート・ミラー・ギャラリー、ルイーズ・ブルジョワが1939年から87年にかけて制作した178点のデッサンを展示。
アムステルダムのオーヴァーホランド美術館で紙に描いた作品の展示。

1989
多数の個展。ニューヨークではロバート・ミラー、ルロン、スペローネ・ウエストウォーター。パリとチューリッヒのルロン。シカゴのローナ・ホフマン、ニューヨークのブリッジハンプトンのディア美術財団。ヨーク(カナダ)のヨーク大学美術ギャラリー。
フランクフルト芸術協会のペーター・ヴァイヤーメア企画の最初の大規模回顧展がヨーロッパを巡回(1989~91年、ミュンヘン市立レンバッハ美術館、リヨン現代美術館、バルセロナタピエス財団、ベルン美術館、ルツェルン美術館、オッテルローのクレラー・ミュラー国立美術館)。
ルイーズ・ブルジョワ、ポンピドー・センターとラ・ヴィレット大ホールで開催された「大地の魔術師」展に参加。

1990
アメリカとヨーロッパのギャラリーで、彫刻、版画、デッサンの多数の個展。サンタ・モニカのリンダ・カスカート・ギャラリー、ミュンヘンのバーバラ・グロス・ギャラリー、ロンドンのカールステン・シューベルト・ギャラリー、ウィーンのクリンツィンガー・ギャラリー、ケルンのカールステン・グレーヴェ・ギャラリー、コロラド州デンヴァーのジニー・ウィリアムス・ギャラリー、ロンドンのリヴァーサイド・スタジオ、ケルンのモニカ・シュプリュート・ギャラリー。

1991
ルイーズ・ブルジョワ、フランス文化省の国家彫刻賞受賞。チューリヒのルロン・ギャラリーの企画展「彫られた作品」展に、<彼は完全な沈黙のなかに消えた>と<ピューリタン>を含む作品を展示。
彫刻の新作をロバート・ミラー・ギャラリーで展示。トロントのイデッサ・ヘンデレス美術財団で展覧会。
MoMAでロバート・ストーが立ちあげたグループ展に可動彫刻<二人組>展示。<セル>シリーズ開始。

1992
「布工房(フィラデルフィアのファブリック・ワークショップ)のルイーズ・ブルジョワとアンヌ・ダルノンクールを顕彰する年次助成15周年」のために、ルイーズ・ブルジョワは<彼女はそれを失った>と題する、「1人の女と1人の男は一緒に暮らした」とプリントした旗を展示。
カッセル・ドクメンタIXに<貴重な水>を出品。北米の幾つかの個展(トロント、サザンプトン、ミルウォーキー、ボストン)、およびアイスランドレイキャヴィクでの個展。
カールステン・グレーヴェ、ルイーズ・ブルジョワの最新の彫刻展をパリで開催。

1993
ルイーズ・ブルジョワヴェネツィアビエンナーレアメリカ合衆国代表となり、ブルックリン・ミュージアムと協働して近年の作品を展示する。
カミーユ・ギシャール監督のヴィデオのためにベルナール・マルカデおよびジェリー・ゴロヴォイと対談(テラ・ルナ・フィルムズとポンピドー・センターの共同制作。52分)。
第2回リヨン現代美術ビエンナーレの「そして彼ら全員で世界を変える」に参加。下記の多数の個展開催。ニューメキシコ州サンタフェのローラ・カーペンター・ファイン・アーツ、カリフォルニア州サンタ・モニカのリンダ・カスカート・ギャラリー、コロラド州デンヴァーのジニー・ウィリアムズ家財団、メキシコのモンテレイのラミ・バルケ・ギャラリー、カンザス州トペカのヤン・ヴァイナー・ギャラリー、ケルンのカールステン・グレーヴェ・ギャラリー。
ルイーズ・ブルジョワ、複数の<セル>制作継続。シカゴとショワジー=ル=ロワからの公的委嘱。

1994
ナイジェル・フィンチ監督のルイーズ・ブルジョワについての映画(ロンドン、アリーナ・フィルムズ−BBC製作。54分)。
ブルックリン・ミュージアム、「ルイーズ・ブルジョワ:記憶の場所 1982~93年の作品」展開催。1982年以降の作品の大規模展。ワシントンのコーコラン・ギャラリーでも開催。次いでヨーロッパ巡回。ほかに下記の個展。
ハノーヴァーのケストナー・ソサイエティ(彫刻とインスタレーション)、ニューヨークのピーター・ブルーム(最新の環境彫刻<紅い部屋>)、ニューヨークのMoMA(版画作品の回顧展)。ゲント現代美術館の「これはショー、そしてショーは沢山のこと」展に参加。

1995
ポンピドー・センターの国立近代美術館グラフィック・アート部門で、ルイーズ・ブルジョワのデッサンを網羅した「思考とペン」展開催。フランス国立図書館がコルベール・ギャラリーでMoMAの版画作品の回顧展を再展示、ブールジュのアート・スペースのラ・ボックスがデッサン展開催。
パリ市立近代美術館がルイーズ・ブルジョワの大回顧展開催。彫刻、インスタレーション、1938年以降今日までのデッサン。ブリジット・コルナン監督、カナル・プリュスとシャムワ・フィルムズ制作の映画<親愛なルイーズ>完成。